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週刊スピリッツ

2024.04.22

第五回スピリッツ新人王開催記念 真造圭伍氏インタビュー 前編

週刊スピリッツ

最前線で活躍する漫画家を審査委員長に迎え、半期に一度“最も面白い投稿作”を決定する「スピリッツ新人王」。第五回審査委員長は、「週刊ビッグコミックスピリッツ」に投稿後、大学3年時にデビューを果たし、現在は同誌で『ひらやすみ』を連載中の真造圭伍(しんぞう・けいご)氏。 

前編となる本項では、投稿歴やスランプを経て本誌デビュー、連載を勝ち取るまでを振り返ります。今すぐに取り入れられるテクニックや心構えは必読です。 

(インタビュー=ちゃんめい)

 

 

Q.本格的に漫画家を目指したのはいつ頃からですか? また、新人賞への投稿歴についても教えてください。

 高校生くらいの頃から漫画家になりたいと思っていましたが、本腰を入れたのは大学生の時です。美大に進学して「この4年間で絶対にデビューしてやる!」と意気込んでいましたね。1年生の時は、1学期の間に20ページほどの読み切りを2本描いて「アフタヌーン四季賞」に投稿していました。過去の受賞者に、尊敬する黒田硫黄さんや松本大洋さんがいたので「アフタヌーン四季賞」への憧れが強かったんです。

 その2本の読み切りのうち一つは、最終選考の40人くらいに残りました。賞をもらうわけでもなく、担当編集さんもつきませんでしたが、雑誌に名前が載るだけでも嬉しくて。そこから「よし次だ!」と意気込んで、夏休み中に40ページくらいの読み切りを描いたんです。でも、全然ダメで最終選考にも残りませんでした。それ以来「アフタヌーン四季賞」は無理かもと思って、「IKKI」の新人賞に投稿するようになりました。これも松本大洋さんへの憧れからですね。

 

Q.最終的には「週刊ビッグコミックスピリッツ」に投稿したのち、『台風の日』で奨励賞を受賞します。何がきっかけで応募したのでしょうか。

 「IKKI」の新人賞も箸にも棒にもかからず、全然うまくいかないなと思っていた時に、友達から「お前はスピリッツが合ってるんじゃないの?」と言われました。その当時、友達に投稿作は見せていなかったので、なんかお酒の席ですごく軽いノリで言われた記憶があります(笑)。それで「週刊ビッグコミックスピリッツ」に投稿したのが『台風の日』。この作品で奨励賞をいただき、初めて担当編集さんがつくようになりました。 

 今思えば、「アフタヌーン四季賞」や「IKKI」に投稿していた頃の作品は、“黒田硫黄さん憧れ”が強く出すぎていたんですよね。絵の力で動かすというのか……。そういう憧れをそのまま真似してみたり、筆ペンで描いたり。でも、結局のところ力不足で意味不明な作品になる。わかる人にはわかるみたいな、かなり独りよがりな作品だったなと。でも、『台風の日』では、もう少しわかりやすいものを描こうという、これまでとは違う意識があったように思います。 

 

Q.「わかりやすい」というキーワードが出てきましたが、そのために意識されたことを教えてください。 

 わかりやすさは今でも大切にしていて、例えばネームを読み返す時は、その作品を知らない人の気持ちで読むようにしています。ネームを俯瞰して見ることで、わかりにくい箇所に気づけるんです。

 あと、僕自身、人の漫画を読んでいて、途中でよくわからなくなることがあるんですよね。その原因の一つが、誰が喋っているのかわからないという点だと思っていて。自分の作品では、誰が喋っているのかわかるように吹き出しのしっぽを必ず入れるようにしています。もう一つが、キャラクターがどこにいるのかわからなくなるという点。基本的なことかもしれませんが、そのキャラクターがどこにいるのか読者に伝わるよう、場所や位置、間合いを意識して描いています。

 

Q. 『台風の日』がきっかけで初めて担当編集がついたと仰っていましたが、それによって作品づくりに変化はありましたか? 

 それが、最初の頃は担当編集さんの言っている意味が本当にわからなくて……。いきなり「自分のなかの売りを考えて欲しい」みたいなことを言われたんですよね。でも、新人だから自分の売りどころか、自分ってなんなんだろう? の状態。今思えば当時の僕には話が高次元すぎました。

 そこから自分なりに考えた結果、自分の売りは「日常のなかにあるちょっとした非日常」だというところに辿り着きました。学生時代に好きでよく観ていた映画が『茶の味』『リンダ リンダ リンダ』みたいに、なんてことない日常にちょっとだけ非日常がある感じの作品が多かったんです。あの雰囲気がすごく好きで、僕も描いてみたいと思っていたので。

 

Q.新人の頃は、担当編集のアドバイスをどこまで受け入れるかという悩みもあったのではと思います。担当編集とどのように関係性を構築していったのでしょうか。

 これは本当に運が良い話なのですが、当時の編集さんが過去に松本大洋さんを担当していた方だったんですよ。大好きな『花男』『ピンポン』を一緒に作ってきた方だと聞いた時は、もう心の中でガッツポーズというか(笑)。この人についていけば大丈夫! だって松本大洋さんを生んだ人だから! みたいな絶対的な信頼がありました。だから、担当編集さんの言っている意味がわからなかったと先ほど言いましたが、打ち合わせの時は必ず録音して後から聞き返していました。「こういうことが言いたかったのかな?」と手探りながらも一生懸命理解しようとしていましたね。

 

Q.その後、大学3年生の頃に『なんきん』でデビューを果たしますが、それまでの期間は担当編集とどのようなやり取りをされていましたか?

 デビューするまでの期間は、実はスランプに陥っていて全然ネームが通らなかったんです。美大の日常漫画や、おっさんが頭にキャベツを乗せて公園でぼーっとしている漫画とか。色々描いたんですが全然ダメでした。今振り返ると、他人がお金を出してまで読みたい作品なのか? と思いますし、客観性がない独りよがりな作品だったなと感じます。

 当時は、自分が何を描きたいのかもわからなくなっていましたね。あと、美大の学生生活も忙しいけど楽しかったので、絵を描いて公募展に出したり、課題に集中したり。正直、漫画は少し中だるみしていたのかもしれません。あ、でも講義中は暇だったから、コピー用紙に落書きみたいな漫画を描いて友達に見せていました。

 あと、大学2年生の頃、高野文子さんにどハマりして“高野文子さん憧れ”が強い作品を描いていました。ちょうどその頃、教習所に通っていたので、高野文子さんっぽい雰囲気で教習所の日常漫画を描いたり。母が太極拳好きだったので、母が太極拳をしている日常漫画を描いてみたり……。でも、担当編集さんの反応はイマイチ。それなのに、勝手に原稿にして作品を送っていましたね。

 

Q.ネームを見せずにいきなり原稿を送っていたと。

 ネームばっかやっていてもしょうがないやって気持ちで、最初から原稿を担当編集さんに送っていました。「一応、賞には出すけどダメだと思うよ」と言われて、まぁ本当にダメだったんですけど。そんなやり取りを続けていたら、いつの間にか大学3年生になっていました。 

 その当時、どんなに描けなくても2週間に1度は「描いてるか?」って担当編集さんが連絡をくれたのですが、正直全然描いてなくて。それで「やばい!」と思って適当に描いたものを出したことがあったんです。そうしたら担当編集さんが「君がこれで良いならいいんじゃない?」って。もう明らかに捨てられたなっていうのがわかるくらい冷たく言われました。それで、このままじゃダメだと思って一念発起して再び頑張り始めました。

 

 

Q.そのお話や、先ほど仰っていた打ち合わせの話を録音して聞き返すエピソードは『ひらやすみ』のなっちゃんそのものですね。そのスランプ期から、どのようにしてデビュー作『なんきん』が生まれたのでしょうか。

 実は、デビュー作の『なんきん』って個人的にはすごく嫌なんです。なぜかというと、自分のノリじゃないから……。当時は黒田硫黄さんや松本大洋さん、つげ義春さんみたいに、どちらかといえば暗い作品が好きでした。でも、自分が好きな暗いものを描き続けてもダメだったんだから、いっそ自分じゃないくらい明るくてハイテンションなものを描かなきゃ。そうじゃないとデビューできない! と思って。それで、無理やりテンションを上げて描いたのが『なんきん』だったんです。

 

 だから、『なんきん』に対しては、これは俺の本当の気持ちじゃない! という葛藤があったのですが、不思議なことにこの作品を描いたことで、自分の表現の幅が広がったんですよね。これまでとは違うポップなエンターテイメントな作品に挑戦したことで、例えば大ゴマや顔のアップは必要だなとか。新たな学びがありました。 

 

Q.無理やり真逆のものを描くことで、これまで囚われていた憧れから脱したと。

 自分の好きなものは全部排除する気持ちで描いていました。とにかくデビューしたかったから必死でしたね。『なんきん』の勢いで、続けて『FELLOWSHIP』『兄、らしく。』という読み切りを描きました。この読み切りを描いたのは大学4年生の頃ですが、『兄、らしく。』は現在の自分のテンションにだいぶ近いと思います。

 

 あと、同時期に映画のコミカライズのお話をいただいたので、先ほどの2作品と同時並行で計4話分のネームを描いていました。ざっくり話すとヤクザのロードムービーもので、結局掲載は見送りとなりましたが、そこで何か掴むものがあったというか……。その仕事の後に、『森山中教習所』と『ぼくらのフンカ祭』両方のネームを描いたんです。 

 

Q. 『森山中教習所』は初連載作ですが、なぜ連載を獲得できたと思われますか

 『森山中教習所』に関しては、当初は割と普通の教習所のお話にしようと思っていました。でも、物語の出だしと言いますか、清高くんの無関心で無感動な感じが1話分ぽんって描けたんですよ。振り返ると、その時は「自分という人間をそのまま描こう」と思って清高くんを描いた記憶があります。自分も清高くんみたいに他人に興味がないところがあるんですよ。そういった自分が経験したことを嘘偽りなく描けたから、連載を獲得できたのかなと思います。 

 『ぼくらのフンカ祭』だと、桜島は女子にモテたいからクールでかっこいい富山に近づきます。でも、これはかっこいいやつの隣にいればモテるんじゃない? って僕が学生時代に思っていたことなんです(笑)。『ひらやすみ』でヒロトがお婆ちゃんによく話しかけられるのも、実体験からくるものですし……。断片的に「自分ってこうだったな」というものが出せると、キャラクターが活きるのかなと思います。そして、キャラクターがちゃんと描けると、その作品はうまくいく気がします。 

 

Q.自分が経験したことを描く上で、描くことと描かないことの線引きはありますか?

 それは、担当編集さんとの打ち合わせで反応を見てから決めます。例えば、「こういうことがあったんですけど」って話した時に、担当編集さんからポカンとされたらこれはダメだなってボツにしますし。反対に「面白いですね!」とか反応が良かったりすると、作品に活かしてみたり。ですので、新人さんもまずは担当編集さんに自分の嬉しかったことや恥ずかしかったことなど色々話してみて、反応が良かったらそのまま作品に入れてみたら良いんじゃないかなと思います。 

 

Q.真造先生の作品は、主人公達はもちろん、それ以外のキャラクターまでもが魅力的です。キャラクターを生み出す上で、「自分が経験したことを嘘偽りなく描く」以外にも何か秘訣があるように思いますが、いかがですか?

 『ひらやすみ』の場合、ヒロトがのんびりしているからなつみちゃんはそれをつっこむキャラにしたり、よもぎさんを忙しい人にしたり……。主人公の周りにいる登場人物たちは、真逆なタイプになるよう意識しています。 

 あと、キャラクターに関しては、担当編集さんの力も大きいですね。例えば、ヒロトは「徹底的に悩みがない方が良い」と担当編集さんにアドバイスいただいたことで現在の形になりました。初連載の『森山中教習所』に関しても、「教習所を卒業すると、人生が始まる人と終わる人がいる」という枠組みは当時の担当編集さんが考えてくれました。漫画家だけではどうして気づけないところがあるから、そこを掬い取るのが担当編集さんの役割かもしれません。 

 

(後編につづく)

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