2023.06.20
「青年漫画賞」募集スタート記念! ゲスト審査員:浦沢直樹インタビュー!!
「皆さんのいいところを我々が見つけますから」
これまで9回にわたり開催してきた、ビッグコミック&オリジナル合同の新人賞「合同新作賞」が、第10回目を記念して「青年漫画賞」として大幅リニューアル決定!!
その最初の特別審査員となる浦沢直樹氏にスペシャルインタビューを敢行しました!
●新人作家に期待するものとは?
――今回、新人賞の審査員をお願いするにあたり、浦沢さんが新人作家に期待するものって一体なんでしょうか。
「僕は、編集者には徹底的に売れるものを追求してほしいんです。その一方で、漫画家を目指す人にはとにかく、自分の好きなものを志高く描いてほしいんですよ。何も素人の時から売れ線を狙う必要はない。どれだけマニアックであろうとも、こういうものが描きたいんだという崇高な志を持っていてほしい。それが、売れるノウハウを持った編集者と出会ってぶつかった時に初めて、見たことのない新しいものが生まれてくると思うので」
――多少アート志向が強くてもいいということでしょうか。
「大事なのは、それは『読みづらくていい』のとは違うよ、ということですね」
――「売れ線でなくてもいい」=「読みやすさを考えなくていい」わけではない。浦沢さんの考える「読みやすい」とは?
「初歩的なところで言えば、今、誰と誰がなんの話をしているのか。落語家さんが『よう熊さん』『なんだい八っつぁん』と一人で何役も演じる際に、身体を傾けることで誰がどこにいるのかお客さんに分からせることができる。ああいう空間すら画面上に作れない人がたくさんいるので。人前に出て何かを発表するのであれば、そのくらいの作法は身につけてから出てこようね、ということですね。逆に言えば、この人の漫画はノンストレスでスイスイ読めてしまうな、となることは、一番の武器になり得る才能だと思います」
――浦沢さんはその“作法”をどうやって身につけてきたのでしょうか。
「吹き出しの位置と喋っている人の立ち位置について、こっちの人が先に喋るならこの人は右側に立っていたほうがいいなとか……小学校の頃から考え続けて、いまだに悩んでいますよ。想定しているのは初見の読者ですよね。連載作品であっても、この話はどういう話で、今誰が何をしているのか、一見さんが読んでもスッとわかるようになっているかは毎回気をつけていますね」
――「描きたい好きなもの」があって、それを「読みやすく描いている」ことがポイントということでしょうか。
「そうですね。『これが好きなんだろうな』とか、本当に愛情を持って描いているんだなと伝わってくる、そういうものを持っている人。それをストレスなく読ませようという心がけをしている人。すごく好きなものは伝えたいはずなんですよ。僕はいつもラブレターのような気持ちで、『この感情よ、伝われ』と思いながら漫画を描いています」
――その「好きなもの」は、モチーフだけでなく、感情だったりキャラクターだったり、立ちのぼってくるドラマの空気感だったり、なんでもいいわけですよね。
「そうですね。さらに言えば、商業的でなかったとしても、本当に想いを込めたものを描いていると、それが次の時代の売れ線になったりする。かつてビートルズがやったことですよ。そんな未来を夢見ない限り、世の中に既にあるものしか作れなくなりますから」
●漫画家に必要な「才能」とは?
――先ほど「才能」という言葉が出てきましたが、何があると才能があるな、と感じますか?
「才能はいろんなところに表出しますから。まずはカメラワーク、演技、セリフ。それらに『おっ』と思うものがひとつでもあれば、それはもう宝ですよね」
――漫画を構成する要素は多岐にわたりますが、絵、構図、コマ割り、プロット、キャラ、演出……どれが一番大切だと思いますか?
「演技ですね。セリフの間(ま)であったり、目線だったり。その表情を見せるには、どの角度からカメラで撮ったらいいのか……見上げるのか見下ろすのか、真正面なのか。その判断が的確かどうか」
――演技を描けている時点で、どんな感情を描きたいか、どうしたら最大限伝わるか、そのビジョンが明確になっているということですね
「たとえば映画を観た時に、そういう演技・演出部分を無意識のうちに学び取って、蓄積させていっている人が、本当に才能があると言えるのかもしれないですね」
●作品のネタ探し……その源泉は?
――浦沢さんはデビューしてからの4年間で25本ほど読切作品を描かれています。新しいお話はどういうところから着想されるんでしょうか?
「僕の場合は『あるシーン』が頭の中に思い浮かんで、そのワンシーンに伴う漠然とした感情を初期衝動にして走り出すということが多いです。例えば、田舎の通りにガソリンスタンドがあって、女性が一人立っているイメージが浮かぶ。意味はよくわからないんだけれど、そこからなんとも言えずもの悲しい感情が立ちのぼってきたりする。その火をなんとか消さないようにするんです。両手いっぱいに水が入った状態で、運ぼうとするとポタポタとこぼれていきますよね。その『水』にあたるのが、最初に浮かんだイメージ。それを、如何にこぼさないように読者のところまで持って行けるか。具体的に考えていくとどうしたってアイデアは痩せていきますから」
――自分の中に湧いたイメージや感情を、多くの人に伝えるためにはどう物語として語ればいいんだろうと考えるということでしょうか。
「それが一番面白いものの作り方な気がするんですけどね。起承転結の『起』から一つひとつ積み重ねていく作り方は、形にはなるけれど並外れた面白いものにはならないんですよ。でもこの作り方の場合、『どうしたらこんなよくわからない形のオブジェを積むところまで辿り着くのかな』と考えるから、思いもよらないものが生まれてくる。連載においても同じで、『YAWARA!』でいえば、第一話で『国民栄誉賞をとる少女』と言い切ってしまってから、女子高生がどうやったらそこまで辿り着くかを考える(笑)。『MONSTER』の場合も、『医者が命を救った少年が成長し、殺人鬼になって戻ってきてしまう』という話を、どこからどういう順番で話し始めたら一番面白いだろうかと。そういう考え方をしますね」
――作っている本人が一番わくわくしそうですね。
●デビュー前/デビュー後、意識すべきことは?
――デビュー前にやっておくべきことがあれば教えてください。
「そんなもの、描きたいものを全力で描くしかないですよ。なんの制約もないんですから。もしかするとその作品で連載が決まって、世界を動かすかもしれない。まずはとにかく、話を始めて終わらせること。それを3回くらいやれたら、ものすごい経験値を獲得できるんです。何百通りもあるやり方からたった一つの道をチョイスしていく、それだけで、何もしていない人からすると雲泥の差です。納得いくストーリーが思い浮かばないのであれば、僕も最初は芥川龍之介の『羅生門』や『魔術』を漫画にすることから始めました。とにかく、描き始めて終わらせるという訓練。経験値を積んでいくことが大切です」
――昔から比べると媒体も増え、デビューだけならしやすい時代だと思うんですが、10年20年食べていくのはそう簡単なことではないですよね。そこを分けるものはなんだと思いますか。
「それはやっぱり憧れでしょう。僕を動かし続けるものは13歳で『火の鳥』を読んだ時に受けた衝撃、あれしかないんです。あの瞬間自分が受け取った高揚感、一生越えられない山並みを見たような圧倒される感覚、それに背かないように生きるということ、それしかないですね」
――その高みを高みとして認識しているからこそ、分析もするし研鑽もするし手も抜かない。その積み重ねでしかないということでしょうか。
「とにかく一番漫画が面白いと思った、あの頃の自分が憧れるような人物に自分がなれているか。それを考えると一生辿り着けないので、やり続ける以外ないんです。お伝えしたいのは、漫画賞に投稿することを、就職活動だとは思わないでほしいんですよね。たとえ賞が獲れなかったとしても、70歳、80歳まで描き続けてほしいし、今あなたが好きで描いているものを、ただ送ってほしいんです。思いの丈を全部描いて送ってくれたら、皆さんのいいところを我々が見つけますから」
――ちょっと見せてくれないか、ということですね。
「僕がそうだったから。僕はいまだに漫画に就職したつもりはないんですよ。ただ好きなように描いていただけだから。そうしたら、たまたま持ち込みで出会った編集者が賞に出してみないかと言ってくれ、審査員の先生方が僕のいいところを見つけてくれた。そこに対しての恩があるんです」
●新人コミック大賞入選作『Return』
――ちょうど5月末に浦沢さんの初期短編集を集めた『初期のURASAWA』の完全増補版がデジタル限定で配信スタートになりました。そこにも収録されている『Return』を今回試し読みとして特別公開しています。
「描いたのは大学4年生の頃ですね。バンドと漫画を思いっきりやるぞという不純な動機で大学へ進学したんですが、入っていた軽音楽部の一つ上の学年で、ザ・ストリート・スライダーズが結成され、瞬く間にモンスターバンドになっていくのを目の前で見て。自分も3年までバンド活動をしながら、自分たちには彼らほどのポテンシャルはないなと思えるところまでやり切ることができた。一方、漫画に関しては『これを描いたぞ』と胸を張れるような作品を仕上げられてはいなかったので、最後の1年で一念発起し取り組んだのがこの作品でした」
――誰に見せるためでもなく、描き始めたわけですよね。
「そうですね。ただ、実はこの作品のイメージの種は高校生の頃からありました。駅から高校まで結構距離があったので、その行き帰り、てくてく歩きながら、『大平原の彼方から、ガッチャン、ガッチャンとぶっ壊れたロボットがやってくる……彼はいったい何故やってくるんだろう』と、その理由をずっと考えていたんです。きっと未完成のロボットなんだろうなと当初は思っていたので、仮タイトルを『Incomplete(未完成)』としていた」
――やはり、まずはイメージが浮かぶところからスタートしたんですね。
「そう。ただ、いよいよ取りかかろうと思った時に、なんか違うなあと思って。『かつて破壊兵器として攻め込み、戦争が終わった後に、めちゃくちゃにしてしまった街からガラクタとして運ばれていたんだ』『電子頭脳も壊れて、自分が何をしていたのかも覚えていない状態でトラックから落ちて、ガッチャン、ガッチャンと帰ってきたんだ』と思いついた時、『これなら描ける』と、一気にドラマが転がりました」
――この作品と、『初期のURASAWA』にも収録されている『Swimmers』『魔術』の3作を持って就職活動のついでに小学館に持ち込みをしたことから、運命が変わったわけですよね。
「賞を受賞した段階でおもちゃ会社のデザイン職に内定をもらっていたんですよ。受賞の報せを受けてから、自分の部屋に入ってレコードを大音量でかけながらじっと考えて、片面くらい聴いたところで、ダメだったらやめるから、1年間だけプロでやれるかチャレンジしてみようと決めたんです」
●初期の傑作短編『さよならMr.バニー』
――そして『初期のURASAWA』からもう1作、「ビッグコミック増刊」’84年1月1日号に掲載された『さよならMr.バニー』も特別公開しています。
「‘83年に『BETA!!』でデビューしてから、8か月の間に読切を8本描いたんですよ。なんとか毎回アイデアを出していたけれど、この頃になると自分の中のハードルも高くなっていて、何を考えても面白いとは思えず、いよいよ万事休すとなってしまった。夜中、近くの公園へ行き、ジャングルジムに座って、『僕の漫画家人生もこれまでだな』と本気で思いました。あの時初めて、空を見上げて『神様…』と呟きましたね」
――「ネタがない」=「漫画家失格」だった?
「当時から、僕にとって担当編集の長崎尚志さんとの打ち合わせは『対決』だったんです。なんとしてもいいアイデアを持っていかなくてはならない。なのに、何もない。結局何も浮かばないまま、電車で小学館のある神保町へ。車中で遠足帰りの子どもたちを見て、何かヒントはないかと必死で考えるも、まるでダメ。いよいよ駅に着き、交差点の向こうから長崎さんが歩いてくる。『ああ、もう終わりだ』と思いながら挨拶をして、『何か考えた?』と聞かれた瞬間に、『ええ、あの~、悪党がウサギの着ぐるみの中に入っているんですよ』と喋り始めていたんです。自分の口が何を言っているのか、自分で理解できなかった。そこからは、あっという間に話が展開しました」
――にわかには信じがたい話ですが(笑)、今考えるとどういう理屈だと思いますか?
「恐らく普段使っていなかったほうの脳みそが突然稼働し始めたんだと思います。理詰めでずっと考えて考えて考えて、もう無理ですと機能が停止した瞬間に、右脳が働いてビジュアル的なイメージが不意に湧き上がってきたんじゃないかと。結果、この作品で初めて、物語が破綻して終わる『不条理ドラマ』ではない、ちゃんとした人間ドラマを描くことができた。自分自身でも手応えを感じましたね」
●霧の中を歩いているようだった新人時代
――そこから2年後の’85年に「オリジナル」で『パイナップルARMY』(脚本/工藤かずや)が、’86年に「スピリッツ」で『YAWARA!』が始まり、怒濤の「2本同時連載生活」へ突入していくことになるわけですが、それまでの「新人時代」を振り返っていかがでしょうか。
「今思えば、当時はまだ脳みその使い方がわからず、濃霧の森の中を歩いているような感覚でした。どうしたら霧が晴れるんだろうと思っても、忙しいから眠れないし、余計に頭がぼーっとしてくる。結局、霧を晴らすには、ひたすら考えるしかない。脳を鍛えるしかない。答えに辿り着けるだけのスキルを脳に持たせるしかない。そこに近道などなかった。身体も脳もしんどいし、それでいて収入は上がらないし、よくあそこでギブアップしなかったなとは思いますね。あったのは、自分がやりたいことはこの霧が晴れた先にあるはずだ、ここを乗り切れば辿り着けるはずだという淡い期待だけ。その期待だけを光に、無我夢中で歩いた日々でした」
(2023年4月 都内仕事場にて)
浦沢直樹 描いて描いて描きまくった!
【新人時代の年表!】
1960年(0歳) | 東京都府中市に生まれる。 |
1965年(5歳) | 手塚治虫『鉄腕アトム』「地上最大のロボット」を読み、真似して絵を描き始める。 |
1967年(7歳) | ノートに処女作『太古の山脈』執筆。以降、誰に見せるでもなくずっと漫画を描き続ける。 |
1973年(13歳) | 手塚治虫『火の鳥』を読み「人生の、物事の尺度が変わるほどの衝撃」を受ける。 |
1979年(19歳) | 大友克洋作品に衝撃を受け、失いかけた漫画への情熱が再燃。ただし、幼少期から変わらず、プロの漫画家になる気は「大変そうだから」なかった。 |
1981年(21歳) | 就職活動のため訪れた小学館で、ついでに初の持ち込みを経験。「少年サンデー」編集部でけんもほろろの扱いを受けるも、創刊間もない「スピリッツ」編集者の目にとまり、持って行った3作のうちの1作『Return』で新人コミック大賞入選を果たす。 |
1983年(23歳) | 「ビッグコミック別冊 ゴルゴ13増刊」に『BETA!!』が掲載されデビュー。この年、10本の読切が掲載。 |
1984年(24歳) | アウトドア雑誌「BE-PAL」にてマニュアル・コミックの連載がスタート。ビッグ系雑誌では『N・A・S・A』『踊る警官』などのシリーズ連載含めて7本の読切が掲載。 |
1985年(25歳) | 「BE-PAL」での連載に加え「オリジナル」にて『パイナップルARMY』(脚本・工藤かずや)の連載もスタート。その他に4本の読切が掲載。 |
1986年(26歳) | 「スピリッツ」にて『YAWARA!』の連載がスタート。『パイナップルARMY』と2作同時連載生活がスタート。その他に4本の読切が掲載。 |
浦沢直樹 NAOKI URASAWA プロフィール
1960年、東京都生まれ。’81年に『Return』で第9回新人コミック大賞入選、’83年に『BETA!!』でデビュー。以後、『YAWARA!』『Happy!』『MONSTER』『20世紀少年』など、メガヒット作を発表し続ける。現在「ビッグコミックスピリッツ」にて『あさドラ!』を連載中。小学館漫画賞を3度受賞したほか、国内外で数々の賞を受賞。世界累計発行部数は1億4000万部を超える。
【初期のURASAWA 完全増補デジタル版】
全28作品、650ページ超の大ボリューム!!
2000年に刊行された初期短編集に、新たに未収録作品などを加え再編集した完全版がデジタル限定で配信スタート!!
定価/1100円(税込)
発行/小学館
新人時代の2作、試し読みはコチラから!!
“誰に見せるためでもなく、好きなものを思いっきり描いた”
新人コミック大賞入選。21歳の渾身作。
『Return』
“初めてちゃんとした人間ドラマを描くことができた”
23歳で描いた初期の傑作短編。
『さよならMr.バニー』